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知られざる有吉弘行の「暗黒の時代」

今や芸能界で一定の地位まで上り詰めた有吉弘行さん。

彼独特の「毒舌」は一般受けし、テレビで見ない日はないほどとなりました。
 

そんな有吉さんも日の目を見るまでの長い「暗黒の時代」がありました。

一体どのようなものだったのか?

 

詳細は続きから


 

 

有吉弘行のブレイクのきっかけ

『進め!電波少年』のヒッチハイク企画


1996年4月、テレビ番組『進め!電波少年』の企画で「だまされて」香港に連れてこられた。香港で告げられたのは「イギリスまでヒッチハイクで行け」だった。
最初の頃は知名度の無さから低迷していたが、インドを過ぎた頃から人気が出始めた。2人は1996年10月に無事ロンドンにゴールした。また、爆風スランプのボーカル、サンプラザ中野が歌った応援歌「旅人よ 〜The Longest Journey」も発売され、これが評判になった。さらに、ヒッチハイクの内実を記した書籍『猿岩石日記』もシリーズ累計で250万部のベストセラーになった。


 

帰国直後の人気絶頂時代

帰国後、人気者になっていた猿岩石はテレビその他に引っ張りだこになった。秋元康のプロデュースにより、藤井フミヤ、藤井尚之兄弟提供の「白い雲のように」を発売する。ヒッチハイクを連想させる様な曲でミリオンセラーになり、1997年の第39回日本レコード大賞の新人賞を受賞し、その後もヒット曲を連発。
事務所の先輩である松村邦洋がパーソナリティを担当していたラジオ番組、『松村邦洋のオールナイトニッポン』にもしばしば出演していた。
月収は最高で2000万円にもなったと言われている。

 

徐々に仕事が少なくなっていく

・全国タレントから、ローカルタレントへ

・給料は、給料制から歩合制に切り替えられた

・読者コーナーの連載を細々と続けた

・猿岩石は解散

・超人気者から転落して、「実力もないのに売れやがって」というあざけり、嘲笑の目。世間から見向きもされなくなった

・有吉は仕事を出す側から相手にされなくなっていた

・仕事がきたかと思えば、「あの人は今」のような番組

・「あの人は今」には、怒りも悲しみも封じ込めて出演した

・生活はといえば、スーパーの見切り品がご馳走

・ついに、月収ゼロに転落
 

 

地獄の8年間へ突入

仕事が全然なかったどん底時代、唯一僕がやる仕事ってうのが午後4時の電話でした。毎日4時になると、事務所に電話して次の日の仕事確認しなくちゃならないんです。
「有吉です。明日の仕事なんですけど…」
すると、スタッフが「明日ないで~す。」と明るく言われてガチャッって切られます。
辛く、精神的におかしくなるような日々が続きました。

この4時の恐怖の電話は7〜8年間続いた。


 

絶望のどん底へ

「そろそろ給料がゼロになるよなぁ…」って思ったときに僕、「自殺しょうかな…」って思いました。「もうこのまま仕事が減っていって、もう上にあがる目はないな、どんどん下がっていく一方だな…」って考えると、行き着く先は「ホームレスか自殺かしかないよな」って思ったという。


 

このような経験があったからか1億円にものぼる貯蓄額があると噂される現在でも普段の生活は質素だと言われている。


 



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